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飯舘村の挑戦

会員の有留武司さんはこの度地方自治専門誌「地方財務」2月号に原発事故で全村避難を余儀なくされた福島県飯舘村に関し「飯舘村の挑戦」と題して寄稿されました。

 

これまで飯館村の復活に向けた活動は断片的に聞き及んではいましたがこの報告により、改めてその実態を知ることができると思われます。

 

 ここにご本人の了解を得てその全文をご紹介します。

 

なお文中にあります「ふくしま再生の会」理事長の田尾陽一様は2016年度の当会アワードの特別賞受賞者です。また「飯舘電力」の千葉訓道様は同じく当会アワードの2018年度の受賞者です。

 

 

(ご本人より)

 全村避難から11年、これまでのプロセスと現在、今後の課題について、客観的かつ率直に書きました。危機管理と地域おこしの貴重なケーススタディと思います。

 

 

(以下本文)

 

【月刊「地方財務」・20222月号】載録論文

 

飯舘村の挑戦 ―全村避難からの再生をめざして―

 

 

 

 

フォーラム自治研究(FJK)理事 有留武司



東日本大震災から11年が経つ福島県の「飯舘村」を取り上げる。福島第一原発事故は、周辺地域をまるごと「破壊」した。土地や森、河川、建物を放射能で汚染し、農業など産業や生活の基盤、家族生活やコミュニティも崩壊させた。飯舘村では、20173月に全村避難が一部を除いて6年ぶりに解除され、村は再生に向けて懸命に努力している。そのプロセスと現在は、危機管理と地域再生の貴重なケーススタディである。 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

飯舘村全景


 

「真の文明は、山を荒らさず、川を荒らさず、

              村を破らず、人を殺さざるべし」(田中正造) 

 

 

1 美しい「までい」の村

 福島県飯舘村は県北東部、阿武隈山系北部のなだらかな高原地帯に位置する。総面積230㎢と大阪市とほぼ同規模であるが、75%を山林が占める。年平均気温が約10度で夏は冷涼で過ごしやすいが、冬の寒さが厳しい。古くからたびたび冷害に見舞われたため、被害の少ない畜産との複合経営を積極的に進め、黒毛和牛「飯舘牛」の産地として有名になりつつあった。

 

村の基幹産業である農業の主要作物は米、畜産、葉タバコ、野菜であり、近年は花卉の栽培が伸びていた。しかし、兼業化や後継者不足が進み、全体の7割弱が農家であるものの、2005年時点の就業人口比率では、第2次産業が39.3%、次いで第3次産業が30.9%、第1次産業は29.3%であった。人口は1956年の昭和の合併時(飯曽村と大舘村)の11,400人をピークに年々減少を続け、201010月時点では6,209人で、高齢化率は30%、年少人口(14歳以下人口)比率が12.8%。多くの中山間地域同様、過疎化、人口減少、少子高齢化が著しい。

 

 

 村のスローガンとして、スローライフを重視する「までいライフ」をかかげ、「日本で最も美しい村」にも選定された。「までい」とは、「丁寧に、心を込めて、つつましく」という意味の方言。質素ながら、生活の質の豊かさを求める地域づくりに取り組んでいたのだ。

 

 

2 村に放射能が降った

 2011311日、マグニチュード9.0の巨大地震が、東北など東日本の太平洋岸一帯を襲い、壊滅的な被害を与えた。直後に福島第一原発の爆発により大量に漏れ出た放射性物資の雲(プルーム)は、風に乗って30㎞以上離れた飯舘村の大地を覆い、雨と雪となっておちた。原発直近地域に匹敵する高濃度の放射性物資が降ったのだ。315日夜、村役場近くのモニタリングポストの値が、0.09μSv(マイクロシーベルト)/時から44.7μSv/時へ500倍も急上昇した。国の安全基準0.23μSv/時と較べても200倍近い高濃度だ。

 

 それでも国の避難指示は大幅に遅れ、422日にようやく飯舘村を「計画的避難区域」として、1か月以内の全村避難を指示した。しかし当時の村長・菅野典雄は、国が提案した県外への避難先を受け入れず、「村のコミュニティを維持し、村の機能を失わないため、村から車で1時間圏内への避難を行う」と決断した。こうした経過の中で「避難が遅れ、村民に無用の被曝をもたらした」とも指摘される。

 

 不安の中、避難指示から2か月後にようやく村民の92%の約6,000人が福島県内に避難できた。だが全村民の避難は9月までかかった。

 

20126月時点の避難先は福島市3,809人、伊達市580人、川俣町508人など、飯舘村から半径ほぼ40㎞以内にある。村役場機能も福島市役所飯野支所に移転した。以後6年間、村民は飯舘の村に帰れなかった。

 

 

3 大きなマイナスからの再スタート

  原発事故は、放射能・放射線の直接被害だけでなく、農畜産業など産業の基盤を破壊し、長期間の避難による家族の分断、コミュニティの崩壊を引き起こした。

 

 村民が帰還するためには、放射能除染が絶対条件である。国は、福島県内で約4兆8千億円を投じて除染作業を行った。その対象は、道路、民家、学校や農地の境界から20mの範囲に限られ、村の75%を占める山林や河川、用水路等は除外された。田んぼの畦道も「農地ではない」と対象外とされた。

 

飯舘村では、20128月~201612月までに宅地、農地、道路など約5,600haの除染が実施された。農地での除染は、表土を5㎝剥がし、代わりに新しい土を入れる「剥ぎ取り」工法で行われた。ただし、「食料生産の場としての農地の土壌は、地球の表面に1520㎝ほどしか存在しない貴重な資源」(中西友子東京大学特任教授)である。汚染土は1㎥のフレコンバックに詰められて仮置き場に保管され、その数は村内で230万個に及んだ。ピーク時には村民総数に匹敵する約6,000人の作業員が従事したという。また、約1,3004,500棟の家屋が取り壊された。

 

 言うまでもなく原発立地地域では住民の雇用が創出されるだけでなく、立地自治体は「電源三法交付金」などによる多額の交付金を受け取っている。だが飯舘村は内陸部に位置し、浜通りの原発とは無縁だった。原発立地から何ら恩恵を受けず、放射性物資だけを受け取ったのだ。村の再生に向け、まさにゼロからではなく、大きなマイナスからの再スタートとなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   フレコンの山(202112月撮影)

 


 

4 村役場の取組み

 20173月、一部地域(南部の長泥地区)を除いて避難指示が解除された。震災から丸6年のことだ。しかし長い避難生活を経て、避難先で住居や就労をはじめ生活基盤が出来るなどの事情で帰村出来ない避難者が多く、202112月現在の村内居住者は1,479人と全村民5,009人の30%に過ぎない。村外避難者は3,527人と70%を占める。福島市など県内3,351人の他、首都圏など県外が176人である。住民票上の人口も、201010月時点の6,209人から5,009人と19%減となった。さらに、高齢化が著しく、65歳以上の高齢化比率が40%に達した。村内居住者でみるとなんと65%にも上る。「若者と子どもが戻らない」のが原発被災地の特質だ。

こうした危機の中で、飯舘村は行政としてどう取り組んだのか。

 

<稼ぐ力をつける>

まず村は、基幹産業である農畜産業の大規模化、集約化のため事業者に最大3,000万円の助成を行うなど、「稼ぐ力」を高めることに注力している。その結果、自立した営農である「なりわい農業」の件数、和牛の飼養頭数も着実に増えている。もっとも震災前の水準にはなお遠い。和牛は2200頭以上だったのが、現在は630頭ほどだ。農産物への風評被害がなお残り村内を闊歩する猿や猪など鳥獣被害も深刻である。広大な耕作放棄地などの空地をソーラーパネルが埋め尽くして広がる光景は、力強くもあり異様である。 

また、新たな雇用の場づくりとして木質バイオマス発電施設や次世代型食肉加工施設の誘致を進めるほか、メガソーラーと風力発電の「クロス発電」など大規模な再生可能エネルギー事業にも出資している。

 

<大型施設の建設>

同時に村は、復興の軸として大型公共公益施設の整備を相次いで進めた。村唯一の「宿泊体験館きこり」の再整備、交流センター「ふれあい館」、野球場、陸上競技場やサッカー場を備えたスポーツ公園、パークゴルフ場、「ふかや風の子広場」、「道の駅までい館」、義務教育学校など、村外居住も含め人口5,000人の村に、大きな施設が次々と建設された。

 

 中でも、少中一貫学校「いいたて希望の里学園」が際立つ。建設費約40億円は事故前の村の一般会計歳出予算額に匹敵する。屋内プールを備え、制服、教材費、PTA会費、海外研修旅行費などはすべて無償だ。学校には59人の生徒が在籍するが村内居住者は2割程度に過ぎず、村外居住者は福島市などから往復2時間ほどのスクールバスで通学する。居住地によってはタクシー利用も可能である。隣接して建設された「認定こども園」園児(在籍54人)も含め、バスの運行費用は2020度決算で7,600万円超に上る。

 

 

 

 

 

 

 

 

舘村スポーツ施設


  学校の建設費は、復興庁所管の「福島再生加速化交付金」による補助金(補助率3/4)と、「震災復興特別交付税交付金」で賄われたため、村費負担は約1,600万円と驚くほどわずかである。多くの施設建設にこの補助スキームが適用され、村では「建設ラッシュ」が続いた。

だが、この学校建設などについては計画段階から、村民やメディアの一部から「ハコモノ偏重行政」との批判があった。しかし菅野典雄前村長は、「学校と子どもたちの存在こそが村の未来なのだ」と建設を推し進めた。

 

村財政は、2020年度普通会計決算で財政力指数が0.3と自主財源が乏しく脆弱である。今後、過重な維持管理費負担による財政硬直化が懸念されるところである。

 

<移住・定住の促進>

 そして飯舘村は新たな復興に向け、専管チームを設けて移住・定住の促進に力を注いでいる。

「移住・定住支援補助金」を受けた村内への移住者は、202110月までで100名以上(72世帯)に上る。この補助金は定住意思の表明が条件であり、補助金(最大500万円)を得て家を購入し訪問看護事業を起業した人、子ども連れで移住し花卉栽培を始めたファミリーなど様々である。新規就農や起業には2年間最大200万円の補助もある。年代は60代以上が34%だが、20代から50代の働き盛りが56%もいる。移住の理由も「実家にUターン」が29%と最も多いが、「就職や農業」が25%、「復興支援」が5%となっている。新たな村づくりの担い手として大いに期待されている。

 

202010月に就任した杉岡誠新村長は、「村外避難者の多くは自宅を解体したため、帰還には住居と稼ぐ力の確保が基本だ。移住転入者と同様に村内居住の『選び直し』をして頂く」とその決意を新たにしている。

2018年度からは地域おこし協力隊を導入した。隊員が自らプロジェクトを実施する方式で、現在4人がキャンドル制作、クリエイターの交流拠点づくり、マルシェイベントの主宰、SNSによる発信などの活動に取り組んでいる。

 

5 村民に寄り添い協働する民間団体

 再生に向けた行政の動きとは別に、いま飯舘村には注目すべき民間団体による新たな取組みが進められている。もう一つのリスク管理とも言える、地域に向けたその動きを次に見てみよう。

 

<ふくしま再生の会が発足>

 筆頭は認定NPO法人「ふくしま再生の会」だ。20116月に、元東大の物理学研究者・田尾陽一氏(「ふくしま再生の会」現理事長)が、研究者仲間ら18人で専業農家・菅野宗夫氏(同会現副理事長)と出会い、結成された。村民、行政、大学・研究機構、専門家、ボランティアが協働して、再生プロジェクトを推進している。現会員は約260人、法人会員が6団体である。「アラ古希」すなわち70歳前後のシニアメンバーがグループの中心だ。「現地で、協働して、継続して、事実を基にして」を活動のモットーとして、多様な会員のそれぞれのバックグラウンド、人脈や経験、専門知識を生かして活動する。

 

<放射線・放射能の測定>

 「再生の会」が、住民の安全を確保するために最初に取り組んだのが放射線量の測定だ。日本トップレベルの研究機関「高エネルギー加速器研究機構」(KEK)と連携し、車で村内全域の放射線量を測定した。2020年までの8年間、村からの委託で村民とともに放射線量を測定し、貴重なデータを分かり易いパンフで全村民に配布した。山林のスギやヒノキ、キノコやコケ類、イノシシなどの線量測定も毎年行った。測定したデータはすべて行政に提出し提言している。

 

<農業の再生・米作り>

 ついで取り組んだのは、農業の再生~田んぼの除染から米作りである。田んぼの除染は営農再開の絶対条件。そこで、東京大学大学院溝口勝教授(「再生の会」副理事長)らは、農民との協働で様々な除染実験を重ねた。田んぼに水を張り、表面5㎝の土を洗い流す方法が有効だ。これには「田車(たぐるま)」という農機具を使うと効率的というアイデアが農家の菅野宗夫氏から出され、「までい工法」と名付けられすぐに実行された。農・学協働のたまものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

学生の稲刈り体験


 2012年から稲の試験栽培を始め、放射性セシウムを部位別に測定。2014年秋に収穫した米が全量全袋検査でセシウムの検出限界を下回り、初めて自家消費した。2017年からは消費者に販売された。農業の再生にはことほど左様に手間暇がかかるのだ。そのほか、田んぼの牧場転用や花や野菜のハウス栽培、漆の栽培実験などへの支援、ワイン用ブドウ栽培にも取り組んでいる。

 

<生活とコミュニティの再生>

 2015年頃から「再生の会」の「健康医療ケアチーム」が本格稼働している。医師、看護師、栄養士、介護福祉士、臨床心理士、整体師などが、首都圏から定期的に村にやってくる。健康相談、栄養指導、さらに足湯・足もみ、カイロプラクティックは好評だ。

 

 村には、多くのボランテイアや研究者、学生、国内外からの視察者がやってくる。村民と外部との交流、村民相互の交流、地域の伝統・文化に親しんでもらうなど、新しい生活とコミュニティを形成する場が必要となる。そこで2018年、農水省の「農泊事業」の補助金や寄付金で宿泊施設「風と土の家」(定員16人)を建設した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

生活医療ケアチーム

 


 2020年秋には、隣に窮さず小学校の風情を残す交流施設「学び舎irori」が完成。両施設は、多彩なイベント・交流の拠点として賑わう。広場では、会員らの「ハウスチーム」による「天体観測小屋」の手作り建設が進む。また「炭焼き窯の再建」にも取り組んでいる。既設の「放射線観測小屋」をはじめ、会員と農民は建築、土木工事などはほとんど自前でやっているのだ。

 

<アートプロジェクトで村の再生>

他方で、最近登場したのが現代アートである。新潟県の越後妻有(つまり)地域や瀬戸内などで、土地に根ざした歴史や暮らしを浮かび上がらせる芸術祭をプロデュースしてきたアートディレクター北川フラム氏が、飯舘村の再生に協働しようと「アートプロジェクト」が動きだした。すでに、アーティストの長谷川仁氏らが、子どもが喜ぶ「オモチャカボチャ」の栽培・収穫イベントなどを開催している。

「再生の会」の田尾理事長は、「村民が直面した原発事故の影響と、山の恵みと田畑の実りが循環する美しい村の生活を、アートを通じて理解してもらうことが再生を後押しする」と期待する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

オモチャカボチャイベント

 


 <若者が彩度の高い「いなか」をソウゾウ>

 

もう一つこんな動きもある。20211月、地域おこし協力隊の一員である松本奈々氏(元IT企業SE)と東京との2拠点居住の建築デザイナー矢野淳氏の2人の女性が、ローカルプロデュース会社MARBLING(マーブリング)を立ち上げたことだ。「多様な価値観、技術、文化や風習、一人ひとりの個性や想いを認め合い、共存し合う、彩度の高い『近未来のいなかづくり』に貢献したい」という。メインプロジェクトとして「ホームセンター(旧コメリ)跡」が、農林畜産業の再生を後押しする拠点施設に生まれ変わる。施設内には村内外の事業者、東京大学や明治大学農学部のブランチなどがテナント入居する。LEDを使ったワサビの水耕栽培、「地産地食」のカフェ、コワーキングスペース、村の農産物を題材としたアート作品の制作・展示などのほか、イベント会場も併設する。彩度の高い「いなか」づくりに首都圏などから若者が集い生き生きと活動しているのだ。

 

<飯館電力~村民と協働の再エネ発電>

 

地元の人たちによる、新しいエネルギー創出の取組みもある。畜産農家の小林稔氏、元外資系企業幹部の千葉訓道氏は、原発に頼らない再生可能エネルギー発電による社会づくりをめざす「会津電力」を立ち上げていた佐藤彌右衛門氏(酒造店経営)とともに、20149月、飯舘電力㈱を設立した。飯舘村の村民ら70人が出資し、20名以上から寄付を受け、65人以上が経営に参加している。 

 

農地に支柱を立て、上部空間に太陽光発電設備を設置し、牧草栽培など営農を継続しながら同時に発電行う「ソーラーシェアリング」を中心に50か所(出力合計3MW450戸分の電力)に展開する。FIT(固定価格買取制度)で得た売電利益を原資にして、地権者に地代、栽培作業者に日当を支払い、牧草は無償(廉価)で畜産家に提供する。雇用創出として太陽光発電所の建設やメンテナンスなども村民に委託している。こうした取り組みで村の再生を後押しする。

 

それにしても、飯舘村には熱意はもとより、高い専門性と技術を合わせもつ「すごい人材」(プレイヤー)が分厚く集まっていることに驚かされる。原発被災地のみならず、全国を見渡しても、その質・量ともに稀有で貴重な「社会関係資本」(ソーシャル・キャピタル)ではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ソーラーシェアリング

 

 


 

6 村役場×村民×民間団体の協働を深める

 原発災害の特質は「被害の広域性と長期性」、「避難の広域性と長期性」である(福島大学川﨑興太教授)。大震災と原発事故による福島県民避難者は、ピークを迎えた20125月末で164,200人、20207月現在でも37,300人に上る。しかも実際の避難者は公式統計よりかなり多いと言われる。20213月時点の被災地11市町村の避難指示解除地域の帰還率は平均25%、飯舘村では30%となっている。原発が立地する双葉町では村役場機能も町外に移転したままで、一人も帰還出来ていない。

飯舘村は、関係者の懸命の努力にもかかわらず、未だ帰還困難な長泥地区を抱えるなど、村の再生はなお道半ばである。

 

<村の再生にヒトコト>

ここで今後の村の再生について、筆者として少しく付言したい。

 

まず何よりも、移住・定住策と合わせ、「関係人口」の創出に注力すべきではないかということである。村内への移住・定住者については、20173月の避難指示解除から2020年までで1,472人と順調であったが、202112月現在で1,479人と頭打ちが見られる。前述のように村外居住の住民と合わせ村人口は震災前の2010年より19%減の5,009人となった。過疎地域に端的にみられる人口減少と高齢化を原発事故が一気に加速したのだ。

 

定住者を増やしていくためには、稼ぐ場や住居など様々なハードルがある。観光客などの「交流人口」は、一過性であり村づくりの担い手にはなりにくい。そこで、移住者対策と合わせ、近年注目されている「関係人口」を村づくりの担い手と位置付けるべきではないだろうか。関係人口とは、「観光以上、移住未満」の地域に関わる人達である。すなわち県内外に住む元村民、ボランティアや専門家、2拠点居住を送る人、リピート訪問者、ふるさと納税者などである。村の再生には「地域おこし協力隊」だけでなく、地域の課題に関心を持ち、経済や文化活動の活性化を後押する「飯舘ファン・サポーター」の拡大が鍵ではないだろうか。「ふくしま再生の会」、マーブリング社、飯舘電力など、それぞれの役割を持つネットワークがある強力な「関係人口」が現に存在するのだ。これらの中から、「再生の会」田尾理事長をはじめ移住した人も出てきている。

 

「関係人口」については、「飯舘村第6次総合振興計画書」で観光分野等の柱の一つと位置付けられているが、さらに農林畜産業、健康福祉、コミュニティ、文化振興など村づくりの多くの分野で協働をすすめる余地があると考える。村役場、村民、民間団体の新しい協働で村再生の展望を切り開くべきではないだろうか。

また、小田切徳美明治大学教授は、関係人口は「都市なくして農村なし、農村なくして都市なしを実現し、分断された都市と地方、東京と農村の相互に価値を橋渡しする」と「都市農村共生社会」を導く道であると説く。

エネルギーと食料の供給を東北に依存してきた東京人には実に示唆に富む論である。

 


著者紹介 有留武司 ありとめたけし

 

1950年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。東京都庁で臨海部開発、福祉、環境等の部門に従事。障害福祉部長、労働委員会事務局長を経て、環境局長にて都を退職。(公財)東京都道路整備保全公社理事長、 ㈱ゆりかもめ代表取締役社長を歴任。この間法政大学非常勤講師。

 



NPOフォーラム自治研究(FJK

 

 地方自治の推進、地域経済の活性化、地域文化の創造に取り組むシンクタンク。受託研究のほか自主研究、セミナーを企画実施する。最近の研究に「廃校活用とコミュニティ」「藩校による地域創生」「小さな村g7サミット」など。オフィスは千代田区神田小川町。