奥山前理事長 10年を語る     2022年8月記

 

奥山前理事長 10年を語る

 

今年、11月3日には認定NPO法人プラチナ・ギルドの会の創立10周年を記念して、東京大学弥生講堂一条ホールにて、記念講演会並びに地域再生・共生社会づくりの二本のシンポジウムを企画しています。

 丁度良い機会でもあり現役引退後の私の思いと、10年間の活動について数回にわたり書き残しておきたいと思います。

 

 

 

軽井沢にて
軽井沢にて

はじめに

 

 私は第二の人生のスタートの日から「自分史」の延長として在宅時は毎日匿名のブログ(日々是好日)を半年前まで書き続けてきました。子供たちから折に触れブログの記事につき感想をメールでもらった時にはうれしい限りでした。

 

また、現役退任間際のある週末に、自分の属する中津川CCゴルフ場で初めて一緒にラウンドした30代の若手経営者と一緒にゴルフに興じ、プレー後の軽食を共にした席でのことです。皆さんは「逃げ切り世代ですね」、これまで滅私奉公して日本を支えてきたわけですから、引退後はゴルフや海外旅行などで人生を存分に楽しんでくださいと励ましの言葉を頂きました。

 

しかしながら、超高齢化が進展し、課題先進国の我が国の未来を支えると、子供たちや、孫たち世代が安心して暮らし、素晴らしい日本が発展するためには、今こそ我々シニア世代が現役時代に培たスキルや経験を活かして「恩送り」する必要があると考えていました。

 

よく「失われた30年」などと揶揄され、バブル以降のあらゆる経済・社会が低迷しており、生産性低下、所得減少、相対的貧困者の増加、女性の社会進出、出生率低下等、国際比較してみるとあらゆる社会的課題がわが国では放置されてきたことが明らかです。日本の人口動態、高齢化の進展は30年前から指摘され、問題点(課題)、解決策は賢明な政府や官僚はもとより、多くの国民が周知するところでした。ところが残念ながら、一向に具体的で効果的な改善策は実行されず、一方、西欧の先進国はもとより、アジア諸国も社会課題の解決に真摯に取り組み、着実に成果を残してきました。

 

日本は戦後素晴らしい経済発展を遂げ、アジア諸国を中心に官主導の成功モデルを示してきました。

ところが、バブル期を境に一方で戦後の成功体験に酔いしれ、他方では今後の方向感を失い、国民は将来への自信を無くしているように思えます。政治の在り方、税制の複雑さ、財投や政府支出の効果検証、政府や自治体の生産性(DX化の遅れ)など早急に改善すべき課題を抱えたまま未だ一向に改善の兆しをつかめていません。これからはPFI(民間資金活用)は勿論のこと、社会課題の解決をビジネスの手法で解決する社会起業家への組織的な支援が大切です。

 

私は1943年生まれで、退職後非力ではありますが、自分の信じるところを、対外的に発言・発信し、自らできることに挑戦してきました。日本の明るい未来を信じ、一人でも多くのビジネス・パーソンに豊富な経験とスキルを活用して社会変革にチャレンジしようと呼びかけてきました。社会変革は一夜にしてなるものではありません。たゆみなき努力の積み重ねと、より多くの心ある人々の参画が必要です。そのような意味からこの10年を振り返り、そして次の10年に大いに期待したいと考えています。

 

来年には80歳を迎えます。

次の10年を次世代に託し、これからも全力でプラチナ・ギルドの会発展のため尽くしてまいります。

近々10月には、これまで30年快適に過ごしてきた横浜市すみれが丘の一軒家を離れ、断捨離の上、あざみ野のマンションに移る予定です。今後、どのように新しい地域との絆を深め、社会貢献できるかあらためて思案中です。おかげさまで視力低下の他は体力的に何らの問題もなく、視力低下は科学技術の成果を積極的に取り入れハンディキャップを少しでも改善するつもりです。私の小さなチャレンジが少しでも皆様方の参考になればとの思いでこの記録を残します。

 

 

 

軽井沢のマンション
軽井沢のマンション

1 会社人から社会人へ!

 

 メガバンクの経営会議メンバーの一員として国際部門担当役員、そして株式会社日本総合研究所社長(2002年6月から)として経営に参画、いずれも私にとっては素晴らしい経験とチャレンジの連続でした。

 

一日たりとも大きな責任と緊張感から気を緩める暇はなく、やりがいと挑戦の毎日でした。私は自分の能力の限り、与えられた組織の目的を精一杯勤め、多少の失敗や力不足は認めざるを得ませんが、全力を尽くし勤め上げてきました。「組織人」、「会社人」として十分な満足感をもって仕事をやりつくした思いで一杯でした。 

   

にも拘わらず、現役第一線を離れる日が近づくに従って、私の人生にとって「やり残し感」というか、これでよいのかとの思いがふつふつと湧いてくるのでした。「人生の仕事」はこれからではないかとの疑念が頭によぎるのでした。

 

会社勤めの間、特に現役時代の大半を国際部門や海外での仕事を通じて我が国の姿や課題について客観的に学び、気が付いてたことは限りなくあります。これからの日本の未来を展望すると、いてもたっていられない責任感と焦燥感にかられるのです。

 

英国在住期間は三度にわたり、通算20年弱の経験から、地域における企業の在り方(ビジネス・イン・ザ・コミュニティーという考え方)や企業と社員の雇用関係、そして現役時代から地域に生きる個人の在り方などについて学んで来ました。

 

ところが自分自身のことになると“猛烈社員“の一人として、第一線を離れるまで、子供の教育、隣人や地域社会との関わりは妻に任せきりでした。ゴルフ以外に趣味を持たず、会社のつながり以外の人脈もなく、大いに反省したものです。

 

(注)ビジネス・イン・ザ・コミュニティー(BITC)は、サッチャー政権初期の80年代初め、財政改善策のための「大衆窮乏化政策」からロンドン市内で暴動がしばしば発生、英国経団連(CBI)は企業は地域住民や自治体、警察や、学校と同様、地域構成員と不可分な存在であるという認識から、企業の社会的責任の一部として、従業員に有給休暇を取得させ積極的に社会貢献を求めています。その歴史を今も引継ぎチャールズ皇太子をBITCトップに頂き、英国経団連傘下の大多数の企業は地域社会に積極的に貢献しています。

 

 

 

軽井沢の別荘地
軽井沢の別荘地

2  第二の人生の準備、自分の趣味など

 

日本総研の会長に就任した後は、後任社長に現業をすべて任せることにしました。私は取締役会会長として経営に関与する以外は極力現業から手を引き、時間の許す限り業界の在り方や顧問会などの運営に時間を割きました。

 

自由時間を利用して、これからの自分自身の人生について思いを巡らすと同時に、これまで多忙に任せて出来なかった趣味の世界を開拓することが存分に出来たことは幸運でした。

 

日本総研は、グループの金融事業各社向けITサービス部門とコンサルティング部門、シンクタンク部門の三部門を持つユニークな会社です。シンクタンク部門はマクロ経済調査部門と創発戦略センターを有し、同センターは環境・エネルギー、新成長産業のインキュベーション機能(業種の異なる企業と共同研究)を得意技にしています。私は同センターとのパイプを太く保ち、環境やエネルギー分野、BOP(ボトム・オブ・ピラミッド)業務などに関心を持つことになります(2007年6月に会長を退き日本総研特別顧問に就任)。

 

趣味の世界の開拓では、日本棋院で囲碁の勉強、国立劇場で歌舞伎や文楽、演芸場では古典落語を楽しみました。また日本吹矢協会に出入りし、吹矢にもチャレンジしました。渋谷の本格的な料理学校、辻クッキング・スクールでは夕刻週一回半年間、和・洋・中の料理の基礎を学びました。鷺沼駅の近くのアスリエ・ジムではダイビング・ライセンスを取得し、東伊豆、沖縄は勿論、モルジブやモーリシャスまで出かけてダイビングを楽しみました。週末には近くの蕎麦室に通い、料理学校での勉強の延長戦にある野菜作り(都筑区のシニア農園のメンバーとして)、魚釣り部門では東京湾や横浜沖、また新島辺りでマグロ漁までチャレンジしました。三日坊主になってしまいましたが、日本橋で小出刃や砥石を買い込み三枚おろしにまでチャレンジした始末です。

 

年金生活に入ると、現役時代には仕事に追われ、叶わなかったいろいろな趣味の世界を寸暇を惜しまず、自分が一度はしてみたかったことにすべてチャレンジしたのでした。

 

ところが緑内障の進行で視力低下が著しくなると、結果的に現在も継続出来ているのは現役時代から少しずつ始めていた日本の古典芸能の能楽と囲碁です。囲碁はリアルでの対局は片目では盤面の把握が難しく、対外試合などで相手が静かに石を置くと、「打たれましたか?」と相手に確認する始末です。最近はリアル対局を控えながら、ネット碁(相手が打った手が石音とともに表示される)はその点気楽です。趣味としての能楽鑑賞は奥が深く、平家物語、源氏物語、伊勢物語などからの取材作品も多く、歴史や古典を学ぶ絶好の機会にもなります。私はここ10年あまり、観世宗家(観世清和氏)の直弟子である清水義也能楽師に毎月二回個人指導を頂いています。

 

 

 

軽井沢にて近影
軽井沢にて近影

3  会社から社会の勉強へ 自分探し

 

 地域社会との関係構築のために、先ずは横浜市都筑区役所主催の「社会デビュー講座」に参加しました。参加者は30名程度で、地域での役割を考え、”社会デビュー“を考え始めている人を集めた座学に参加、その後地域の「環境問題」に興味を持つ数名の仲間と一緒に、横浜市が力を入れていた地域住民のゴミの分別と焼却炉や堆肥工場を見学、ゴミ処理の現場を見て回りました。

 

 横浜市は他の自治体に先立ち、家庭ゴミ、生活ゴミの分別を進めていました。ガラスや、紙ゴミなどの資源ゴミは再利用のため処理工場に運ばれます。生ゴミなどの燃えるゴミは、港北ニュータウンの中に新設された大規模焼却炉で焼却され、処理の過程で発生する熱エネルギーは市民の温浴プールや暖房用の熱源としています。都筑区は横浜市の中でも農業(野菜栽培)人口が多く、生ゴミは堆肥としての利用も進んでいて、焼却炉のキャパシテイが大きく、プラゴミは熱源として焼却されています。

 

また、自分が住んでいる「すみれが丘」は、老齢化が進んでおり、ちょうど発足した「すみれが丘町内会の見直し委員会」に自発的に参加しました。当時の町内会委員5名と私を含む住民ボランティアの参加者5名で一年間のプロジェクト・チームを組成、積極的に議論をリードしました。見直し委員会の答申は①極力全世代参加による開かれた運営、②町内会役員は町内会費の運営管理と各種事業の企画立案、外部委託(例えば夏祭り・盆踊りはすみれが丘小学校の「親父の会」に委託)③町内会のHPを作成することなどでした。

 

各地の町内会は歴史的には住民の見守り(管理)組織で、自治体の下請け仕事に従事してきました。最近ではマンションも多くなっていて管理組合が町内会の役割を果たす例も増えています。町内会の組織率(全住民の町内会に登録している比率)は地域ごとに実情は異なりますが、50-60%程度です。すみれが丘町内会の場合は50年ほど前に東急が開発した住宅地で、戸建て住宅が多く、世帯数は1、500軒ほどです。ゴミ問題などもあり、組織率は60%と高い方です。現在は若手・中堅の住民の自由闊達な参画で、10年前に私たちが作成した基本答申通りに運営が行われているようです。

 

また、趣味の会としてすみれが丘内の棋楽会(囲碁会)、謡曲グループに参画し、町内会を超えた都筑区内の同種趣味の活動グループでも主導的な役割を演じています。 

 

更に、日本総研会長を引退する直前に立ち上がった、NPO法人サービスグラント(自分の得意分野を活かし「プロボノ」を通じた現役世代の社会貢献活動)嵯峨理事長をお手伝いするため、同社の特別顧問に就任、以降現在に至るまで同社の経営に参画してきました。

 

サービスグラントでは自らプロボノ・ワーカーとして、東日本大震災の一年後に遠野に立ち上がったNPO法人まごころネットの経営サポートプロボノ(同NPOの一年間の歩みを記録するパンフレットの作成、これからの活動方針のための企画立案書作成)に5名のメンバーの一員として現地調査、東京でのリポート作成作業に参画しました。

 

アショカ・ジャパン設立、アショカ・ヨーロッパとのかかわりについても簡単に触れておきたいと考えます。ロンドン勤務の最後の頃、ワシントン所在の国際的社会起業家集団とのかかわりが友人を通じて出来ていました。丁度そのころ、日本でアショカ・ジャパンの立ち上げが渡辺奈々氏(現代表)の努力で出来上がりつつありました。ロンドンからの紹介で、渡辺奈々代表の事務所を訪ね、日本での活躍をサポートできないか検討を始めました。

 

そのころ欧州でのアショカの本部はドイツにあり、アショカ・ドイツの若手フェローがアフリカ大陸での衛生管理が大きな関心事になりつつあることに着目し、トイレットデイ(トイレの日)の提案に腐心していました。TOTOの海外向けウォッシュレットTVコマーシャルを見たアショカ・フェローはTOTOの支援が得られないかドイツ・アショカのトップを通じて私のところに依頼が舞い込みました。浜松町にあったTOTO本社に何度か掛け合ったのですが、残念ながら支援を得ることにはつながりませんでした。

 

アショカ・サポーターズ・ネットワークの年次大会は毎年欧州や米国の主要都市で開催されていますが、ロンドン大会には手弁当で参加し、大いに世界のソーシャル・セクターを学ぶ機会を得、私自身の刺激になりました。

 

(注)「プロボノ」とはラテン語で「公共善のために、英語ではFor Public Good」という意味で、欧米諸国では弁護士、会計士などの専門知識を有するプロフェッショナル達が、学校、NPOや自治体などの公共セクターに対して無報酬で働いていたことに由来する。米国サンフランシスコ在のNPOタップルート社が、現役世代の専門性の高い人たちに呼びかけ、組織的に公共的なサービスの提供を行っていたごとに学び、サービスグラントの嵯峨理事長が2009年に日本で同様の仕組みを取り入れNPO組織として立ち上げた。(2020年の登録プロボノ・ワーカー数は6、400名)

 

 

立ち上げ当時の懇親会の様子
立ち上げ当時の懇親会の様子

4  「任意団体プラチナ・ギルドの会」創立

 

サービスグラントのプロボノ活動を通じての社会貢献活動は私にとって目からうろこ状態でした。現役世代の社会貢献活動は参加者の意識の高さ、そして会社以外の人とのチーム(4-5人)での活動による新しい働き方、創発活動は社会変革の起爆剤となるのではとの思いを深めました。

 

丁度そのころ軽井沢で避暑休暇中に、自分の不注意から緑内障で何度も手術を続けていた右目眼内に細菌が入り、本来無菌状況の網膜内の視神経を一夜にして高熱と高眼圧で損傷しました。その日の内に軽井沢病院の眼科で治療を受けましたが埒が明かず、翌早朝に新幹線移動し、かかりつけの原宿のオリンピア眼科で眼内の細菌処理手術を行いました。しかし残念ながら結果は右目の視力の完全喪失でした。

 

50歳の時に初めて両眼緑内障に患っていることが判明し、当時東北沢にあったオリンピア眼科で両眼の手術をした上で、最後のロンドン勤務に赴任したのです。その後も国内・海外で何度も手術を繰り返し、房水の流れをよくし眼圧を下げる手術をしてきたのですが、視神経が完全に破壊された上は回復の余地はありません。失意の下で、世阿弥が晩年を過ごした佐渡島と夕日に沈む太陽の最も美しい新潟の海岸旅館に一人で傷心旅行したのもこの時です。

 

大手術の直後、サービスグラントの嵯峨理事長の介添えの下、厳冬のサンフランシスコを訪れ、プロボノ・モデルの生みの親であるタップルート社を往訪、そして同地でNPOの経営にかかわりたい社会人と、100社を超える在サンフランシスコのNPOとのボード・マッチ・イベントに初めて参加しました。同市では毎年、年末に電力会社の社会貢献活動の一環として、大集会場でNPOがブースを構え、現役ビジネス・パーソンが人事、資金調達、会計、法務などいろいろなスキルを活かして貢献するため、履歴書をもってNPOのためにボランティアで働き口を求めて集まります。何度かの面接の後、相互に関心のある領域で「お見合い」が始まります。毎年のマッチング率(成功率)は驚くほど高いと聞き、驚かされました。

 

このような経緯から、私の人生の後半戦はプロボノ・モデルを活用した、社会貢献の仕組みがわが国でもできないか検討を始めました。はじめはサービスグラント社の中に、年金生活者となったシニア層が生きがいを見つけて働ける場を作れないかと模索しました。しかしながら、成長期にある同社ではその余力がなく、別途シニアのための社会貢献活動の場と居場所づくりのために任意団体を私の過去の人脈の中で集まり、スタートすることになりました。

 

市ヶ谷駅にあった銀行OBの交流施設である銀泉会館で、10名程度の退職者が毎月一回夕食を共にして、「これからの人生の越し方」を話し合い、懇親を広める機会にしました。しかし、それぞれの参加者の思い(ベクトル)は必ずしも同じではなく、どのような活動をするかについては、なかなかまとまりませんでしたが、少しずつ形を成してきました。

 

当初のメンバーは元住友銀行でいろいろな分野で活躍した人が半数、後は日本総研の仲間や大学時代の友人・知人が中心でした。任意団体の名前はプラチナ・ギルドの会とし、それぞれのキャリアを生かして社会貢献するシニアの「ギルド組織」をイメージしました。2012年6月の創立で、2013年10月には永続的な活動を目指してNPO法人化しました。

 

 

写真は毎月一回、日本総研本社会議室で開催される「例会」風景。NPO創立以来、月一回原則最終火曜日の夕刻会議室を借用、大変ありがたい活動の場を提供してもらい感謝しています。  
写真は毎月一回、日本総研本社会議室で開催される「例会」風景。NPO創立以来、月一回原則最終火曜日の夕刻会議室を借用、大変ありがたい活動の場を提供してもらい感謝しています。  

5 プラチナ・ギルドの会のNPO法人

 

 当時私以外はほぼ全員NPOでの経験を持たず、何を目指すべきか会員間での意思統一ができないままの法人化でした。それでもNPOのためのNPO組織、中間支援団体として、組織の理念や目的を定款に入れ込み、まずは経費を極力抑え、小さく生み、少しずつ進化することを目指しました。ところがNPO法人はどのような法制下で成立したのか、中間支援団体とは何か、ましてや「アドボカシー活動」とは何かなどほかの会員は知る由もありません。ベクトルの合わないまま取り急ぎ、シニアの居場所づくり、そして具体的な活動領域などを定めました。

 

NPO内部の連絡体制は当時サイボーズの無料システムを活用、事務所は事務局長の新宿にあるマンションを登記上の住所といたしました。

 

法人ではありますが、事務所、事務員は持たず、まずは毎月一回の定例会(毎週最終火曜日の夕刻)開催を目指し、会場は東五反田にある日本総研本社の会議室を無料で借りることになりました。

 

例会では各種の活動を行っている他のNPO組織の代表者をお招きし、彼らの活動について学び、当会としてどのように協力出来るかを議論しました。また、当初は私の個人的な関心事でもある、日本におけるソーシャル・ベンチャラー(社会起業家)を招き、起業家支援についても積極的に学びました。例えば、医療保険の対象外の個人に簡単に「ワンコイン診療」を受信してもらい、血液検査から生活習慣病を削減し、医療費の増大を抑制するビジネス・モデルを開発した、日本のアショカ・フェローなどです。また、ボストンコンサルタンティングを辞め、大企業の若手社員の教育プログラムとして海外のNGOに派遣し、現地で自分の会社が何ができるか検討させる「留職プログラム」の開発者、そして米国で文科系の新卒者の間で一番人気の高い企業「Teach For America」の日本版、NPO法人Teach For Japanの創業者などを招きました。

 

例会活動の他にもいくつかの事業領域を開拓しました。とりわけ、すでに社会で活躍しているシニアの人を顕彰し、同世代や続く世代のロールモデルとなっていただくことを目指した「プラチナ・ギルド アワード」が最初の事業となりました。公募者の中から内部選考、外部選考を経て毎年5-6名のアワード受賞者を発表してきました。毎年、年初にはサービスグラントが事務局となって開講した東京ホーム・タウン大学(毎年異なる大学を借用)で表彰式と受賞スピーチを聞く会を開きました。徐々に受賞者の中からも当会の会員になっていただくケースも増加しました。

 

スタートに当たっては、中間支援型NPOに協賛会社として、またサービスグラントには協力会社として参加していただきました。さわやか福祉財団の堀田力理事長(当時)、日本経済新聞社の杉田元社長、NPO支援センターの理事長、女性の社会起業家の谷口社長らにアワードの外部審査委員になっていただきました。

 

アドボカシー事業(啓蒙活動)ては私たちは社会の変革を夢みて、一人でも多くのビジネス・パーソンに第二の人生で社会参画・社会貢献してほしいと訴え、HP上の「私たちからの提言」では「50歳にもなれば、ボランティアや社会貢献活動を」、「働きながら社会貢献する生き方」などと題して発表しています。

 

とはいえ、これまで関係の薄い地域社会でデビューするのは簡単ではありません。何とか現役時代や退職して早い段階で「次の自分をみつける」ために、「気づきセミナー」プラチナ・ギルド アカデミーの事業を開発しました。しかしいずれも事業として立ち上げるのは簡単ではなく、まさに暗中模索のNPOの立ち上げと苦労の連続でした。

 

 

写真は、第9回アワードの受賞者と共に。中央は堀田力さん、右端が筆者
写真は、第9回アワードの受賞者と共に。中央は堀田力さん、右端が筆者

6  NPO法人プラチナ・ギルドの会10年の歩み

 

NPO法人として活動を始めて自主団体の会員数10-15名程度から次第に会員、準会員の数も増加し、「原則、来る者拒まず、去る者追わず」の自然体で、近時は正会員60名弱、準会員10-20名程度で推移してきました。

 

NPO法人化と同時に、定款に定めた組織の理念・目標をより分かり易く、キャッチーなものとするために、組織の目指すところをコピー・ライターのU女史に組織の目的を十分に説明の上、プロボノ精神でお願いし、いくつかのキャッチ・コピーの候補を作成していただきました。最終的には例会の席で会員の投票により「シニアが動く。日本が変わる。」と「見つけてください。次の自分を。」の二本立てで決定し、以降場面に応じ、キャッチ・コピーを使い分けています。

 

また、ロゴについてもサービスグラントの東日本大震災後の「遠野まごころネット・プロジェクト」でご一緒したプロジェクト・メンバーの一人、電通本社のH氏にお願いし、これもプロボノベースで同社の若手有志に作成いただきました。ロゴ・マークはプラチナ・ギルドのPGの文字を入れ込んでいます。

 

私はNPO法人設立と同時に、折角なら早い段階で「認定」資格を取得したいと考えていました。その理由は、中間支援型NPOは「NPOのためのNPO」であり、わが国のソーシャル・セクターを強化するために大切な役割を有しているからです。

 

一般的にNPOの設立は容易であるため、弱小で、実態のないものも多く、後継者不足等から休止状態のものも多くなってきています。また、NPOの名前を利用して社会的に問題のある活動をしているケースも散見されます。

 

それ故、認定NPO法人は監督官庁の調査を経て、外部から見ても信頼のあるNPOであり、同時に寄付は、個人であれ、法人であれ、税制上有利になることで、NPOとしては寄附が集めやすくなることです。法人化後2年過ぎた段階で、東京都に「認定NPO法人」の資格申請の上、最短期間で「認定法人」の資格を得ることができました。昨年は更に5年間の延長申請も認可いただきました。

 

「プラチナ・ギルド アワード」の外部審査委員長として、当初から一般財団法人さわやか福祉財団の堀田力理事長(現会長)にお願いし、快く引き受けていただいていることは前述しました。また、認定NPO法人サービスグラントの嵯峨代表理事には設立当初から外部理事として数年間お世話になりました。

 

シニアの地域での社会参加を促す研修プログラムを開発し「プラチナ・ギルド アカデミー」をスタートさせたことはお話しましたが、ここ二年間あまりはコロナ禍で、リアルな座学+実例研修(NPO訪問など)開催ができなくなったことから、SMFG のグループ各社を中心にオンラインでの企業内シニア向け研修を成功裏に実施してきました。全世代向け企業内研修のニーズも高く、近時は「ソーシャルキャリアの創り方」研修としてユニークな企業内研修のジャンルとなってきました。

 

企業内研修は従来業務に関連した知識や技術習得を目的にするもので、世代や階層別に外部専門家を招いて講演などを中心に行われてきました。ところが昨今若手社員はソーシャル・セクターの在り方、地域課題の発見・解決のためのNPOなどの活動についての関心も増加しています。また、ミドル・シニア層の社員は第二の人生に対する自分自身の在り方、越し方などにも関心度が増加してきています。

 

NPOの活動資金として、個人及び企業寄附を募り、SMBC日興証券やオービック、浅井産業などから定期的な寄付を頂いています。寄付は、NPOにとってバランスのよい資金調達(会費収入、各種補助金、自主事業など)が財務体質を多様化するためにも必要です。

 

上記のような企業内研修事業との関連や、シニア・ビジネス(シニア顧客を対象とする)に関心のある企業とのコラボ、更には高齢者雇用延長法の導入による、企業自身のソーシャル・ビジネスも増加することが予見されます。

 

 

写真は飯館村を訪問し、避難中の村民(福島再生の会副理事長ご一家)との懇親会風景
写真は飯館村を訪問し、避難中の村民(福島再生の会副理事長ご一家)との懇親会風景

7  楽しくないとNPOではない

 

 さて、10年間の軌跡を振り返ると、何もかも初めてのことであり、悪戦苦闘の連続でした。当初、アワードは「上から目線」、「この会はやたらにカタカナが多い」、「アドボカシーって何」などと辛らつなコメントも多く、折角入会していただいても、長続きしない方もいらっしゃいました。

 

しかし、例会などで多様な経験を有するメンバーと懇親の場を通じ親しくなれば、徐々に学びも多く、これまで経験したことのない世界の話を聞くことが出来て、刺激的であると肯定的な見方をする人も増えてきました。さらに会員の中にはアワードの受賞者や自分自身でいろいろな社会貢献をされている方の入会もあり、会員の質は様変わりしていきました。中でも、入会時にはNPOと何ら関係もなかった人が、他のNPOの理事や幹事、事務局を務めると、例会でその経験談を話していただくことにより、刺激を受け、会員全体の意識が高くなってきたように思います。

 

そもそも、NPO組織での活動原則は、フラットな人間関係の中で、自分に関心ある分野で、出来るときに参加することから始まります。「次の自分を見つけ」これまでお世話になった地域社会に何らかの「恩送り」が出来るのは本来「楽しい」ことです。特にシニア世代は自分の居場所が少なく、名刺もなくなり、基本的には趣味の世界であれ、ボランティアであれ、仲間を求めているのです。成功するNPO組織は参入者をいかに温かく、楽しく、迎えることができるかにかかっています。私たちはそのような観点から、大人の社会科見学のような形で、国内外でスタディーツアーを企画してきました。

 

私の記憶に残るスタディー・ツアーの幾つかを取り上げてみましょう。

まずは理事長がアワードの受賞者でもある認定NPO法人福島再生の会の活動を知るスタディーツアーです。当会の理事・事務局長は、高齢者の飯館村民が避難した施設で心理カウンセラーとして週末は福島に通い、献身的な努力を続けています。プラチナ・ギルドの会は過去数度にわたり飯館村の実情を知るために視察を重ねてきました。

 

また、NPO法人グラウンドワーク笠間(理事長がアワード受賞者で当会会員でもある)にも数度お邪魔し、活動状況や笠間観光ツアーを企画しました。 

 

さらに、会員であり、初めてのプラチナ・ギルド アカデミーで中核メンバーとして活躍いただいたK氏は、ご家族の介護のためふるさとの秋田県能代市に移住されて、現地で高校時代の友人と「市民おもしろ塾」を立ち上げました。秋田市、能代市との交流を広げ、数年前にそれぞれの地で当会による講演会を企画していただいた上、能代・白神山地(五能線に乗り)の観光付きの、スタディー・ツアーを実行しました。

 

また、海外ではタイとカンボジアの国境紛争が落ち着いたと聞き及び、世界遺産のプレア・ビヒアの教会と、近くの村で長野県の寺の住職が学校を経営し、村人のための井戸掘りをしている現場を見学しました。

 

2020年2月、新型コロナの感染が報道され始めた直後ではありましたが、当会H会員がフィリピンのダバオ市で建設した高齢者介護施設を見学、マニラではアワード受賞者が食育教育の目的で設立したレストランを訪ね、従業員との交流会を持ちました。

 

当会会員のA氏はオーストラリア、ブリスベーン近くで、和牛2,000頭を飼育する一大農場の経営を任されていますが、和牛牧場とゴールドコースト見学を兼ねた10数名のスタディー・ツアーもありました。

 

国内外のスタディー・ツアーはいずれも満足度が高く、会員間の距離も縮まり、今でも貴重な経験ができたと高く評価されています。NPOは自由で、フラットな組織を目指していますので、共に活動することが楽しくなければ継続しません。コロナ禍前には例会後に可能な限り近くのレストランでの懇親会を持ち、8月と12月の例会では日本総研の会場でワインやビールと簡単なビュッフェを楽しみました。残念ながらコロナ禍が長引き、リアルな会合やスタディー・ツアーが制限されると確かに活動は制約されます。

 

 それでも私たちは早い段階で、サイボーズやグーグルG Suiteによるオンラインでの交流、情報の共有の仕組みを取り入れ、近時はZoomなどのオンライン会議システムを取り入れ、会員の勉強会を通じた意思疎通に努めています。

 

 

写真はカンボジア・スタディーツアーの一枚で、タイとの国境近くにある世界遺産・プレアビヒア遺跡に通じる村に長野の住職が学校を寄贈、数名の生徒たちと一緒に写真を撮ったものです。井戸もない貧しい村から集まる子供たちは天真爛漫で明るく「上を向いて歩こう!」を歌ってくれました。
写真はカンボジア・スタディーツアーの一枚で、タイとの国境近くにある世界遺産・プレアビヒア遺跡に通じる村に長野の住職が学校を寄贈、数名の生徒たちと一緒に写真を撮ったものです。井戸もない貧しい村から集まる子供たちは天真爛漫で明るく「上を向いて歩こう!」を歌ってくれました。

8 世代交代と新しいビジス・モデルの導入

 

私はNPOの活動を始めた直後から、米国のソーシャル・セクターの見学と同時に、英国やヨーロッパの実情についても関心を持っていました。毎年のように夏場には長女一家が住むロンドンを往訪し、英国の社会保障制度の実態や、チャリティー、NPOなどの市民社会組織の現場を訪ね、見識を深めてきました。

 

特に注目したのは、1995年5月、15年ぶりにトニー・ブレア党首率いる労働党政権が誕生し、「小さな政府・大きな市民社会」を旗印にした「新しい公共」政策です。この政策の展開は、今後の日本の参考になると考えました。その中で特に、英国の金融機関に眠る休眠預金を原資に、ソーシャル・セクターへの資金循環がマーケットの起爆剤になるのではないかとBig Soceity Capital の動向に注目して参りました。この辺りのことについて「ソーシャル・キャピタルと経済」(大守隆編、ミネルバ書房発行 初版2918年10月20日、第一部 ソーシャル・キャピタルと経済の多様な関係、第2章 「日本企業と高齢者が果たすべき役割」)で、英国のNPOや社会的企業の最近の動向と日本への示唆などについて寄稿しています。

 

残念ながら我が国の市民社会の発展の歴史は未だ浅く、阪神・淡路大震災後、平成10年12月に「特定非営利活動促進法(NPO法)」が可決成立し施行されました。米国における社会関連の生産物、従事する労働力、資金の流れのいずれを見てもGDPの約一割を占めています。欧州や英国では規模的には米国にははるかに及びませんが、米国の20-30%の規模であり、日本は米国比10%内外です。

 

日本においても、NPOの総数は50,000社を超え、認定法人数も増加してきてはいます。しかし、その活動を支える人材、資金は薄く、創業者の理念や目標は高いものがありますが、組織力、変化への対応力という観点からは力不足で、今後後継者の育成、資金調達力の強化などの課題を残しています。

 

日本のNPOは自主財源が乏しく、自治体等の補助金を得て、安価なサービス労働を強いられることも多く、世代交代が遅れ、成長力が乏しいことがあげられます。その点、若手社会起業家を中心に、社会課題の解決をビジネスの手法で取り組むソーシャル・ビジネス(社会的起業)がここ10年ばかり日本でも盛んになってきており、大変期待しています。

 

私はプラチナ・ギルドの会創設以来、会員が自らの強味(スキル)を活かして、他のNPOの理事や幹事、そして事務局を兼務し、中間支援団体として支援することが最も付加価値の高いプロボノ活動であると考えています。私自身もいくつかの団体の経営面での支援をしています。同時にプラチナ・ギルドの会としては身の丈に合う、固定費を抑えた活動、そして、シニアが中心のNPOであることから世代交代には強い使命感を持って努力してきました。

 

二年ほど前から後任の理事長候補を意識的に育成してきました。創立10周年を迎えるに当たり、次の10年を託せる識見と、新しいビジネスモデルを開拓できる能力とリーダーシップを持った人材を幸運にも見つけることができました。今後は、新体制を全面的にサポートしつつ、自分自身の新しいチャレンジにも引き続き果敢に挑みたいと考えています。

 

ここに至るまで、「世代交代」と「新しいビジネスモデルの導入」が当会を次の10年間を更なる高みへと発展に結び付ける鍵と考えてきました。副理事長をヘッドに、前々期に会員の「意識調査」を実行し、回答の分析を行いました。そして前期初には「創立10周年記念イベント」のためのプロジェクト・チームを立ち上げてもらいました。この二つのプロジェクトは担当いただいている10名ほどの委員が毎週のようにZoomで議論し、私はアドバイザーとして週末のZoom報告会に参加してきました。「創立10周年記念イベント」は既に詳細な計画も固まり、理事会・総会で予算措置も了承されています。今年11月3日に東京大学弥生講堂一条ホールでの開催を待つばかりです。

 

(注)Big Society Capital(大きな社会基金)はロナルド・コーエン卿の下で、英国の休眠預金(15年以上動きのない銀行預金)に対して政府から独立した調査委員会で英国のソーシャル・セクターのために活用することが勧告された(2007年)。2012年4月に英蘭銀行の監督下で「大きな社会基金」が設立され、休眠口座資金がチャリティーやNPO、社会的企業(CIC)に対して投・融資され、資金不足のソーシャル・セクターの起爆剤として活用され始めました。

 

 

写真は山梨県丹波山村(関東で一番小さな村・人口500人)が日本各地の小さな村の7村長に呼びかけ、最初の「小さな村サミット」を開催した時のものです。丹波山村に地域おこし協力隊員として派遣された小村さんの計画に賛同し、プラチナ・ギルドの会はこのイベントに参加しました。
写真は山梨県丹波山村(関東で一番小さな村・人口500人)が日本各地の小さな村の7村長に呼びかけ、最初の「小さな村サミット」を開催した時のものです。丹波山村に地域おこし協力隊員として派遣された小村さんの計画に賛同し、プラチナ・ギルドの会はこのイベントに参加しました。

 

9  もっと自由に! 人生を満喫したい!

 

 本年3月末から二週間ほどロンドンに住む長女が孫息子を連れ、一時帰国してくれました。実は昨年緑内障の進行に加え、白内障が一段と進んでいることが判明し、主治医から「あなたの場合、白内障手術もリスクは高いですよ」と指摘されましたが、2021年10月25日にオリンピア眼科に入院、翌日手術しました。手術結果が安定期に入る術後約半年後に、娘は孫息子のイートン校(全寮制)の休暇と合わせ一緒に帰国となったのです。

 

いろいろ私どもの将来のことを話し合う中で、一軒家に住むのはそろそろ限界かもしれず、自宅(すみれが丘)の近くにマンションを探してはどうかということになりました。有料老人ホームへの入居も検討しましたが、「まだ少し早すぎない?」と娘と家内の反対もあり、娘は中川、センター北、あざみ野駅近くの中古や新築物件をネットで検索、毎日一緒にアポ取りし物件を探しました。しかしながら、長年住んだ自宅を離れマンションに越すことに抵抗感もありました。

 

 マンションへの移住の決断は、白内障もあり、視力低下から夜の外出は危険で、地下鉄の乗り換え階段や無灯の自転車には閉口していましたし、自宅内でも今後のことを思うと階段などリスクがあると思い始めたこともあります。そして、茲許一年以上、新聞を読むことはもとより、読書もままならず、特にPCの画面が見づらく焦っていました。家内も昨年8月に免許証を返納し、買い物も特に夏場は負担感が強く、駅近くのマンション生活も悪くないと思ってきました。

 

 最終的にあざみ野駅近くの新築物件Branz Cityあざみ野に絞り込み、購入の検討を始めました。手付金を支払い最終的に8月末にマンションを購入、10月中頃に再度娘一家4人が一時帰国してくれる時に自宅からの移転を完了する計画です。

 

 居住空間の最適化(マンションの自室は80㎡強と小さいが、共有施設が広く、マンション内に内科医・訪問診療もある快適な環境)、交通の至便さ。周囲に商店、医療施設も多く、あざみ野は昔からの住宅地でビルは5階までの建築制限があり、街の佇まいが落ち着いていて、お洒落なのも気に入った理由です。

 

今後の生活設計をまず可能な限り快適にすべく、アイフォンを最新機種に変更、大型アイパッドを購入しました。最近は視力も次第に安定してきましたので、近視・遠視の眼鏡を新しく調整し、新聞はアイパッドで文字を拡大して読むことができるようになりました。また、PCもマイクロソフトの最新バージョンで音声入力も使えるようになってきました。弱視の人を対象にした背景のダークモード化なども試していますが、メニューなどが見づらく今一つ成功していません。

 

 読書はこのところアマゾンのAudibleに大変お世話になっています。耳学問ながら新刊書も含めて二日に一冊は消化し、コストパフォーマンスは最高です。いずれにしても身体機能の退化、老化には抗えず、今後一層にテクノロジーの活用により、人生を満喫する挑戦を続けます。来年には傘寿を迎え、いよいよ終末期(林住期)を迎えます。

 

 私にはまだまだやり残したことが沢山あります。これまで長期間旅行する際には庭木への散水の手配も必要でした。セキュリティー対策も完璧なマンション生活になると、国内、海外を問わず気楽に家を空けることができます。コロナ感染が下火になれば、家内が米国に一度旅してみたいとのことですし、ヨーロッパも含めてもっと自由に出来るときに旅行したいと思います。地中海クルーズはロンドン駐在時に出かけましたが、世界一周クルーズも夢見ています。これまで以上にQOL(生活の質)を上げ、人生を楽しみたいものです。

 

 

写真は毎月一回、日本総研本社会議室で開催される「例会」風景。NPO創立以来、月一回原則最終火曜日の夕刻会議室を借用、NPOにとっては大変ありがたい活動の場を提供してもらい感謝しています。
写真は毎月一回、日本総研本社会議室で開催される「例会」風景。NPO創立以来、月一回原則最終火曜日の夕刻会議室を借用、NPOにとっては大変ありがたい活動の場を提供してもらい感謝しています。

 

10 特別顧問就任と今後の社会参加活動

 

 プラチナ・ギルドの会の生みの親として私は10月から特別顧問になります。先ず新体制を100%支援し、これからの更なる同会の次の10年の発展と進化にコミットし、自ら貢献してまいりたいと考えています。

 

現役を退いて10年あまりの間、会社人間から、社会変革のチェンジ・メーカーとして我が国のソーシャル・セクターの在り方について学び、それなりの人脈も築いて来た自負があります。現役引退後は、経済団体や大阪大学の経済学部同窓会会長などの職も暫時辞任し、自分がやり残した「仕事」のためにNPO活動に全力投球してきました。

 

 そして、同時並行的に進めた趣味の内、謡の勉強についても引き続き切磋琢磨するつもりです。10年余りの間にここまで勉強できたのは飯野先生や清水能楽師のご指導もありますが、一緒に勉強してきた仲間たちに負うところが大きいです。都筑謡曲会、楽謡会、老松会、謡曲青葉の会、すみれが丘謡曲会に所属し、それらの発表会にも参加してきました。

 

これまで十数年の社会変革へのチャレンジも謡曲の勉強も振り返れば大変大きな成果で、このような活動を通じ充実した人生を送ることが出来ました。これからの十年を新たな気持ちで挑戦することで更なる高みを極めることができると確信しています。

 

「過去に縛られるのではなく、未来に生きたい」が私の心意気です。ともすればビジネスマンは昔話に花を咲かせ、自慢話を酒の肴にする悪い癖があります。これまでも昔の会社の同僚との会合は極力避け、世代を超えた新しい世界に飛び込み、挑戦してきました。その意味では引越しによる新しいコミュニティ、例えば、多世代にわたるマンションの居住者たちとの交流、青葉区山之内コミュニティー・センターの各種団体との接点作りなど、交流範囲を地元に広げ、活動の場を模索してまいります。神奈川県、横浜市、都筑区、青葉区などの自治体を中心とする活動、他の中間支援団体、損保ジャパンなどシニア・ビジネスに関心のある企業、地域の大学などとコラボしつつ、ビジネスの機会を図りたいものです。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                       企業内研修の間口を拡大し、また、他のセクターと共に、「気づきセミナー」を再開し、これまで同様各所での講演活動などでプラチナ・ギルドの会の資金調達にも貢献し、盛り立てていきたいと思います。自分自身の更なる社会参画、趣味の世界を通じ自己実現とプロアクティブに未来志向の研鑽を積みたいものです。

 

 来年には傘寿を迎えます。最近「80歳の壁」和田秀樹著(幻冬舎新書)をAudibleで聞きました。体力も気力も70歳代と全然違う!ラクして壁を越え、寿命を延ばす「正解」がありますとのカバー・コメント付きです。いろいろ参考になりましたが、私は無理せず、体を鍛え、少しでも社会との関りを持ち、「利他」の気持ちで前を向いて過ごせば「いい人生」を過ごすことができると確信しています。

 

 

11 何が起こるかわからない

 

「VUCAの時代」とよく言われます(注)。要は「先行きが不透明で予測が困難な時代」です。元々1990年代後半に軍事用語として使われましたが、2010年代に入ると変化が激しく先行き不透明な社会情勢を示してビジネス界でも使われ始めました。

特にロシアのウクライナ侵攻、最近の中国と台湾情勢、北朝鮮の動きを加えるとますますVUCAの意味が現実そのものになりました。

 

  皆さんはイスラエルの天才歴史学者、ユバール・ノア・ハラリ著「サピエンス全史」を読まれたことがありますか?壮大な人類の前史、生き残りをかけた進化の歴史。私は一年ほど前にAudibleで聞き(読み)ました。ハラリ氏の近著「21世紀の人類のための21の思考」もまた素晴らしい一読の価値ある書です。今のウクライナや台湾に関する不安定な状況にはハラリ氏も直接的で明確な答えを見つけることはできません。

 

専制独裁国家が自由で民主的な国家に挑戦状を叩きつけ、武力による威圧で現状変更(パワー・バランスの変更)を求めています。科学技術がはるかに進歩した21世紀に、19世紀、20世紀の論理で戦略核をちらつかせ乍ら、戦術核を利用して力による侵略を行うプーチン大統領、中華思想を旗印に三選を実現し、絶対権力の座に収まろうとする習近平国家主席、北朝鮮の金一族支配もみんな同じ穴のムジナでしょう。特に相手が核兵器保有国であることが事態を複雑化し未来を予見出来なくしているのです。

 

  そのような中で、個人も企業もソーシャル・セクターも、自分たちが信じる道を歩み、その結果に責任を持つしかないのです。法の支配を守り、自由で公正な民主主義国家がいつも正しいと断言はできませんが、少なくとも国民の知る権利を制限し、反対意見を許さない専制国家は、いずれ瓦解せざるを得ません。

 

  先進諸国はいずれも高齢化が進み、中国もインドですら生産年齢人口は徐々に減少し、近未来的は“人口オーナス”(人口ボーナスの逆で、成長が制限されます)の時代を迎えます。これからの成長期待が持てるのはアフリカ諸国です。中国はアフリカ諸国に対しても着々と投資を進め、表面的には資金力に物を言わせて影響力を強めています。

 

しかしながら「ベニスの商人的ビジネスの手法」(金融業)は限界があり、わが国が長年開発途上国を支援してきた医療やインフラ、農業などへの地道なウイン・ウイン・モデルが長い目で評価されると確信しています。「単なる金貸しではなく、魚の捕まえ方を教える」手法が長い目で有効なのです。そのためにも我が国はイノベーション(新機軸)と科学技術(AIやロボティックス)を活用して生産性向上、女性の社会進出、脱炭素、エネルギーや食糧の自立などの懸案に真摯に立ち向かうことが重要です。民間部門は勿論のこと、公共部門(政府や自治体)のDX化を加速することが肝要です。

 

特に若年人口が急速に減少する我が国では、四季と美しい自然に恵まれ、文化溢れる日本の比較優位性を生かし、有り余る教育機関のインフラを活用し、途上国から戦略的に優秀な若手人材を迎え、英語による教育を推進することを提案します。日本の高校・大学を卒業し、日本で働く場を提供し、親日外国人を増やすことは、中長期的には内なる国際化を進め、国際結婚を含め、将来的には日本の人口問題への寄与も考えられます。

 

 日本のシニア人材も若い海外人材の教育・育成に大いに役立つことでしょう。新機軸(イノベーション)の機会はここにもあるかもしれません。私は残された人生を更なる「恩送り」の事業に励みたいと思います。勿論、これまで努力してきた「一人でも多くのビジネス・パーソンが何らかの形で社会貢献する生き方」がこれから高齢化の進む諸国のモデルとなれば嬉しい限りです。

 VUCAの時代だからこそ、新機軸で日本社会のあり方を変革してみたいものです。

 

(注)VUCAはVolatility(変動性)、Uncertainty(不確実性)、Complexity(複雑性)、Ambiguity(曖昧性)の頭文字

 

 

12  終わりに

 

 現役時代からの私の「モットー」は「頭は低く、眼は高く、心は広く」です。この言葉は寺の山門に貼ってあった標語(作者不詳)で、亡き銀行時代の私の一年先輩のA氏からそのコピーを頂きました。私は大変感銘し、二部額装しA氏ともども役員室の自室に掛けてきました。今でも自宅の部屋の後ろに掛け、時折振り返り、日ごろの行いの反省材料にしています。A氏とは第二の人生に入ってからもお付き合いがあり、社員の社会貢献活動を高く人事に評価する仕組みを有するG社の社員と一緒に、早朝の麻布の教会で“おにぎり“(G社の若手社員が新宿のホームレスの人に配るため)を握ったことを思い出します。

 

 ロシアのウクライナ侵攻が一向に収まらず、一方的な破壊活動が続き、一般人への攻撃(戦争犯罪)が公然と行われています。私は早い段階でウクライナの子供たちを少しでも支援すべく、国連UNHCR(高等弁務官事務所)宛て子供支援基金に個人寄付をしてきました。

 

 家内は英国滞在中にカリグラフィーを学び、聖書の御言葉をカリグラフィー作品にしてきましたが、丁度コロナ禍でのステイホームを利用して、第二作「聖書の御言葉に思う」の自費出版を企画していました。私は即時計画に賛同し、2百万円の資金協力を約束し、同時に第一作目「聖書の植物に思う」の経験から妻に事務負担が少ないように、発行部数は極力制限することを約させました。第一作は10年前に増刷を重ね、2,000部を発行、売却代金は東北震災支援のために赤十字に寄付いたしました。今回、発行部数を500部に制限したことから、一冊当たりのコストは高いものになりましたが、5月初めに完成し、ほぼ二週間で完売、5月末にはUNHCR宛50万円の寄付をさせていただきました。自費出版は販売、発送、集金とすべて個人の負担となり、特に発送作業は部数に応じ、最も安価な郵送手段を選び、発送する必要があり、この度は500部に限ったわけです。

 

今年の夏は世界的にも異常気象で、日中は35度を超え、熱帯夜も続きました。私生活面でも大きな転換点を迎え、近々マンションへの転居作業が待っています。

 溜めにためた荷物の整理はいずれ必要になるとの思いで、時間をかけて楽しみながら実施しています。そのおかげで、地元の人にネット上で不要なものを引き取ってもらう仕組み(ジモティー)、自分で値付けしてネット上で販売、発送するメルカリなどを活用し「新機軸」を学んでいます。

 

 冒頭紹介しましたモットーの通り、誰とも隔てなく仲間同士で活動できるベースを広げ、傘寿を迎えてもまた新天地で世代を超えた交流ができればと大いに期待しています。そのためには心身ともに健康に保つことが前提になります。

 

 最近本屋に行くと「…大全」という本が並んでいます。健康を維持するためには適度な運動、バランスの取れた食事と睡眠が大切です。目、耳、鼻などの機能はもちろん大切ですが、内臓機能の維持などはややもすると忘れがちです。鳥がさえずりはじめ、外が明るくなる5時頃に起床し、洗面するときの私の作法(歯磨き舌と歯茎の清掃、モンダミンでうがい、髭剃りが「習慣」です。朝食には 必ずバナナ一本、野菜サラダにキムチ(発酵食品)、パン、卵、ヨーグルト菌を育てます。

 

 コロナ禍で免疫力強化ため、2020年初めから鷺沼駅近くのアスリエからセンター北駅近くの東急OASISにジムを変え、夏場を除き往復は徒歩で約8,000歩、毎週3-4回は筋力トレーニング、ストレッチ、水泳の後、露天風呂で筋肉マッサージ、サウナとこれも習慣化しいます。「習慣大全」の効果は抜群です。

 

 さて、「第二の人生」への私の10年間の挑戦と軌跡をお読みいただきありがとうございました。皆様方に何らかの参考になれば幸せです。

 

 人生は挑戦の歴史です。私の「第三の人生」への挑戦は折にふれ、可能な限り書き残したいと考えています。どうぞお暇なときブログをお訪ねください。

「人生の挑戦」は自分自身のためは勿論ですが、次の世代を担う若者や子供たちのために役立つ「利他の心」が広がることを切に願って筆をおきます。(完)

 

 

全12巻で完結です